矢吹芳寛画業30周年 厳選作品集           續(ぞく)~筆受の年輪~

 
2020年、矢吹芳寛は画業30周年を迎え、記念展を予定しておりましたが、社会情勢を踏まえて延期となりました。ここにWeb展示として出展予定だった作品群から一部を厳選し発表するという形をとらせていただきたいと思います。絵画に興味のお持ちの方は宜しくご高覧くださいませ。

 
作品1  暁の明星図                        2008年作 紙本水墨

初秋明け方、徐々に明るくなる空に薄っすらと光る金星を背景に椿の実を描いたものとなっているが、薄く輝く金星は背景の濃淡をつけている際に偶然、水滴が落ちて出来た。この偶然の体験が描くという行為に新たな一面を作者に気づかせる契機となった。ちなみに東洋画材を扱う時は利き手の左手を使うが、今作は思うところがあって右手で描いている。

       

 
作品2  月中槿の実図                       2009年作 紙本水墨

晩秋の朧月夜を背景に一房の槿の実を描いたもの。槿の実はまるで月に向かうかのよう佇む。綿毛のように柔らかな月は背景の空の濃淡を墨で作る際に水をたらし込んで出来た偶然性の強い表情である。描出は線と点に近いアクセントがほとんどで、こういう描き方は芳寛にしては珍しいともいえる。その暗示的な描写は影絵のような世界に湿度を含んだ柔らかな空気感を与えている。

       

 
作品3  四枯華図                     2009年~2010年作 紙本水墨

 
    

 
作品4  山帰来図                          2010年作 紙本水墨

作品3と同様に今作は「写生」というスタンスをとって制作している。作品3では「鋭」と「柔」を対比させているが、ここでは柔かさに鋭さとは違う力強さを加えようという試みが見て取れる。「写生」によって実像の力強さを取捨する事で、茫洋とした雰囲気と芯の強さを作品に同居させたい作者の意向が反映されている。2010年当時は「演舞」という概念に興味があり、嗜好が「静と動」「凛とする」「幽玄」などに向かっていた。そのため、この時期の作品には身体的な表現を意識した観が強くある。       

 

 
作品5  月下芙蓉実図                     2011~2018年作 紙本水墨

「写生」「写実」から画面の中の色(ここでは墨色)の響きに興味が移行し始めた頃の作品である。
芙蓉の筆致は「写意」によって省略され、墨の柔かな滲みやグラデーションの味わいによって月夜の雰囲気を醸し出そうとしたのがよくわかる。グラデーションへの嗜好は2020年現在でも続いており、その味わいが作者の中で年々深化した事で、2018年までチョコチョコと加筆されていた。

※写意(しゃい)とは東洋画で、外形を写す事を主とせず、描き手の精神または対象の本質を表現する事。

        

 
作品6  蓮池(瞹蓮)図                        2012年作 紙本水墨

「瞹蓮」とは「蓮に瞹(かく)れる」という意味。
祖母を亡くしてしばらく筆を執れなかった作者が、その数ヶ月後に半ば無意識ながら「三途の川」という抽象的な概念を具象化した作品であろう。普段は眠らせている事が多い作者の芸術的な一面が色濃く反映された珍しい作品ともいえる。夜は咲かない蓮の花が必要以上に暗澹とした景色の中で様々な表情を見せているが、なんとなくその暗さの中に温かみや優しさも観て取れる。無念さを受け入れつつある過渡の感情が仄見えて形容しづらい風韻を感じさせている。

 

 
作品7  杏雀図                          2013年作 紙本着色

この「杏の花木に留まった雀」の図の題材は中国明代の呂紀の作品の一部に倣ったもの。
20代の頃より古画への憧憬の念を持っていた作者が実際に模写に添った形で筆を執った数作品の中の一つ。
杏の意匠や描法は呂紀、雀は長谷川等伯が描いていた雀の描出を参考にしている。
東洋絵画には西洋絵画のような陰影の暗示の表現はなく、色の対比と階調を平面の中に巧妙に配置する事で対象となる形や背景の奥行きを暗示する。紙や絵の具などの扱い方がデリケートでポジ(+)の作業のみで組み立てて行く仕事の中には「素材を活かす」という意識が明確にある。作者は模写的作品を通して「素材への意識」の重要性を身体をもって噛み締めていく事になる。

 

 
作品8  月中蜻蛉図                        2014年作 紙本色墨

青・緑・茶などの色墨を使って描いた作品。
長い草の陰で月光を浴びながら佇むイトトンボ。生き物は「個」ではなく「全」として「他」と色んな形態で繋がりながら生きていく。個として孤立して生きるより、他と手を取り合って生きた方が良いといえるのかもしれないが、時には他とバランスよく付き合って行く事が出来ず、個として孤立してしまう事もあろう。作者は幸いにして初老を迎える前にパートナーに恵まれたが、それまではそのまま独身で一生を終える覚悟をしながら制作活動を続けていた。この作品には作者が有り得たかもしれないもう一つの個としてのあり方に対する気持ちが反映している。
塊然と佇む蜻蛉の姿には例え独りでも前向きに生きていきたいという作者の念いと独りでも輝いて生きていけるという希望が込められている。

  

 
作品9  柳燕図                         2016年作 紙本水墨

柳の枝で戯れる三羽の燕を描いたもの。
作品7と同様に、20代の頃より古画への憧憬の念を持っていた作者が実際に模写に添った形で筆を執った数作品の中の一つ。
室町時代の柴庵の描いた柳燕を倣いつつも、燕の腹部の白さと背景の対比に作者のアレンジが加えられているように見える。燕や柳の葉の描出の省略は大胆且つ大らかである。羽の一枚や葉の葉脈などは些末な事であるかのように墨の心地よい階調の構成を重要視している。そうなっている事で観者は描かれている対象を見るのではなく、画面全体に帯びている空気感と向き合うような印象を受けるかもしれない。
倣う事で、この時期、室町絵画における古拙の中にある「幽玄」さの素晴らしさを再認識出来たといえる。

          

 
作品10   川鵜図                   2017年作(2019年補筆) 紙本水墨

ある展示会のために短い時間(約5日)で描いたものを2019年に補筆した作品である。
テーマは「背中で語る」でありながら、川鵜が背中で何を語っているのかは観者に委ねている。それでいながら作者の中にある自然科学的な美しさへの傾倒は羽の表現から容易に見て取れる。
作品全体の印象としては、作者が持つ自然への憧憬と畏怖、作者が感じる野生の逞しさが表現されており、且つここでも個と孤の精神が屹立している。

       

 
作品11   山下瑞雲図(個人蔵)               2017~2018年作  紙本色墨

無謀にも山の峻厳さを描こうとして、描いているうちに山や自然の優しさに想到し、結果その相矛盾した相貌の融合を求めた作品となった。
この矛盾に対しての意識は、この作品等の制作を通してより深いものになっていく。
これ以後、相反するもの、矛盾する事の調和や合一を作品の内側に込めようとする試みは、現在に至っても続いている。
また、不二(富士山)を描いた事で絵画の中におけるグラデーションの意識や認識の広がりを感じる事が出来、表面的には気づきにくかもしれないが、以後、作品の趣きが変容していくように見受けられる。
分岐的作品は無論いくつもあるが、本作は芳寛氏の作風に両義性を与えた作品でもある。

 

 
作品12   月下月見草図                      2018年作  紙本色墨

ある展示の「富士」の図との付け合わせ(対を成す)のために制作。
紙の目に墨を染み込ませていく、または埋めていく作業を意識的に行なっている。
これは作品11などの「富士」を描いていて気づいた滑らかなグラデーションが生み出す絵画的な不思議な効果をより意識的に実験しようとした作者の好奇心によるものである。
月見草には強めの黒(正確には藍墨)をアクセントとして駆使してはいるが、ややシルエット的に捉えて、月を主役に仕立てようとしている。
だが、その意図に相反して、月見草は執拗なグラデーションとアクセント表現を纏って、やや煩い脇役になってしまっている。そこに釣り合いの悪さのような側面があるのだが、(煩さのある)個性派俳優に脇を固められた(無言の)主役がただ(白く円く)佇む姿に物語のワンシーンのような面白さを感じなくもない。
結果、画面には破綻を破綻のまま受け入れた不思議な和合性があるように思う。

     

 
作品13   紅梅尉鶲図                    2018年作  紙本着色、色墨

動きのある紅梅の枝に留まった尉鶲(ジョウビタキ)。
2018年頃から意識的に作品に内包され得るエネルギーの密度について志向し始め、試行が制作中顕著になってくる。それは結局のところ物理において色や墨の階調(グラデーション)の密度を高めていく(滑らかにしていく)という行為に他ならない。当然ながら、そうする事によって描出された対象の内に籠る力(描かれた部分に込められた力)は包まれた素材や作業の妙味によって変質していく。
尉鶲から放たれた軽妙なエネルギーが梅の枝を伝って鋭さを増しながら放射されて場面の四方にまで及ぶと、印の力を借りながら画面全体に「冬のちょっとした厳しくも穏やかな一場面」を作っている。

  

 
作品14   仔犬(孤犬)図                    2019年作  紙本着色、色墨

 絵を描くというのが好きで、その表現の可能性を模索する探求者として日々を過ごすうちに、道のない空白地に独り佇んでいる錯覚に陥る事がある。これは錯覚ではなく実際にそうかもしれないという感覚がこの作品のテーマになっており、何もない空間に迷い込んだ仔犬はその象徴である。経験上、迷っている時は耳を澄ませるとなんとかなると思われるので、絵の中の仔犬も遠くからの呼び声に振り向く。この後、その呼び声の方に向かうのかどうかは観者の想像に委ねているが、仔犬が歩みを止める事はないだろう。作者はおそらく子犬に自らの姿を投影しており、そこには「画家として自分はまだまだ仔犬=ヒヨッコである」という認識が反映されている。

  

 
作品15  雪梅雀図(個人蔵)                   2018年作  紙本着色、色墨

2018年のある日の事、プレス(圧)とカロリー(熱)が石を生み出す…みたいな感じの話を耳にした。ふと悟得するというか勝手気儘に想像して「プレスとカロリーが意志を生み出す」とか「プレスは成形、カロリーは焼成」とか「プレスはじっくり、カロリーは勢い(逆もアリ)」とか色々と言葉が膨らんできた。これが物作りの作家の心象なら…と想像は広がり、とりあえず「カロリー」はどう考えても「情熱」だと思い、では「プレスは?」となった。本作を描いた時はまさにそういう思考というか、自問をしている頃で、「プレス」という圧の作業でどのような力が絵の中に注ぎ込まれるのかを試した記憶がある。結果、間接的ではあるが、「カロリー」を考える事にもなり、興味深くもあったが珍しくヘトヘト感が描いた後に残ったのを覚えている。試行してみて意った事は、「別に深くプレスについてこだわる必要はないな」だったが、いい経験にはなったと思う。 (芳寛本人談)

 

 
作品16  椿実燕図                 2019年(2020年補筆) 紙本着色、色墨

執拗にプレスを意識する必要はないというか、それは自分が向かってみたい場所らしきところとは方向性が違うと悟って描いたのが本作である。作品15の雀は作業の性質上硬質な強さで描かれていたが、本作の燕は絵の核となる強さを感じさせつつも筆致の柔らかさに包まれて名状しがたい姿態で椿の枝に留まっている。描写による沁みが滑らかに連なる事で、いつしか(絵画としての)自立性を帯びていく感じが描いている最中の感覚にあって心地よかった覚えがある。これは創作の中で作品15での思索が布石となっていて、意識しないまま(対象の色や形態表現のみならず)プレスの問題を昇華してしまっていたからかもしれない。
そういう意味では作品15の「雪梅雀」と「椿実燕」は連作であり、「強さや深さの質の違い」、「冬と夏」で対を成している。(芳寛本人談)

 

 
作品17   竹図                    2017~ 2020年作  紙本着色、色墨

絵画を描く時「対比(コントラスト)と同時に生じるともいえる(階調)グラデーションの表現をどうするか?」という問題がある。
所謂「キワ」の事で絵画を構築していく際に最も重要な要素の一つである。この「キワ」から生じるグラデーションをともなう作業の響きや趣きの幅は無限にあるといってよい。
西洋絵画において、この問題を完全に明確化したしたのはセザンヌであり、モランディは静物画においてその問題を突出した魅力に変えたと思う。そしてその「キワ」の問題だけで絵にしてしまったのが後期のロスコであり、一つの方向性の抽象画の到達点でもある。
芳寛の場合、2018年辺りから、画面の中で生み出すキワの質が瞭らかに滑らなグラデーションになってきているが、遠因は上記の画家達に対する礼賛の念にあるかもしれない。
竹の節の表現などはロスコの仕事に対しての返礼に見えなくもないほど「キワ」に含みを持たせようとしたのが観て取れる。

 

 
作品18   姫檜扇水仙夏茜図                2020年作  紙本着色、色墨

絵画において「キワ」に見られる作業をはじめ、全ての作業によって施される色質は「点」「線」「面」に見え、結局は「点」であり「線」でもあり「面」でもあるもで、本来なら「名」はないのかもしれない。
そういうふうな思考が濃厚な芳寛の絵には「分け隔てないのが好き」という嗜好がある意味ハッキリと観て取れる。
本作では古画で学んだ線的要素ないし効果は鳴りを潜め(線的仕事はしているが線として見せない)、主役と思しき夏茜も脇役と思しき姫檜扇水仙も同等に扱っている。もう一つ言えば構成を工夫して余白すら等価値として観者に観てもらいたいようでもある。
「分け隔てないのが好き」は素材の扱いにも及び、紙と絵具・墨の馴染み方や結合の仕様を重視し、「合一(感)」を理想としていると思われる。厳密には「同化」は物理上あり得ず「調和」であるが、「同化」に迫りたいという攻めの姿勢を模索し、様々な「調和」のカタチを見出していく事で、彼の絵は今後も変容し続けていくだろう。

  

 
作品19  満天星[どうだんつづじ](個人蔵)             2019年 キャンバスに油彩

たまたま2019年に油絵の仕事の注文があり、油絵具は乾くのが遅いので、その作品が乾くのを待つ間に数点、別の絵を描く事が出来た。マチエール(材質効果、絵肌)と意匠性にテーマをおいて描いた。過去の日本人の洋画家の一人に素晴らしい絵具勘(素材に対するセンス)を持った方がいらっしゃり、創作意図の中にその方への敬意があったと思われる。葉の色は筆触(タッチ)による筆跡を残し、背景は絵具が表面乾燥する直前に掌で撫でて筆跡を消してみた。個人的には面白い効果だと思っている。(芳寛本人談)  

 

 
作品20  新緑の雑木林                    2019年 キャンバスに油彩

芳寛は大学で現代美術を学んだ者であるが、当時から(現代)美術界に面白さを感じる事があまり出来ず、古典から近代絵画への興味は強まるばかりであった。絵画を放棄した現代アートを志向から外したとしても、綿々と続いて来ている近代絵画(無論、抽象絵画を含む)までの絵画観は一筋縄ではいかない深みと広がりがあり、そこを学び知っていく過程で様々な絵の可能性が溢れている事に気づく。
まさに矢吹芳寛が生きている間に表現出来る絵には限りがあるが、絵そのものの可能性は無限であるといえる。
本作は具象絵画と抽象絵画が持つそれぞれの課題を纏めた象(カタチ)の一つである。
それは結局、セザンヌの自然観察(外界の認識)を加味した絵画空間とゴッホの素材美を含めた装飾的な抽象美を混ぜ合わせた作品に過ぎないが、揺らぎを含んで画面に置かれていった絵具のリズムが、また別の絵の可能性を示唆しているようで興味深いものがある。
20代の制作を評論家の一人に「絵画のための絵画による絵画論」と評されたが、ここでも「まさしく」という他ない。

 


 





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